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コンクラーヴェ その2

コンクラーヴェその手順 その1

投票

投票は所定の用紙に無記名で行われて、投票者自らが手書きで記入して容器に入れます。第1日目の午後、最初の投票がおこなわれます。この第1回の投票で決まらなかった場合には、2日目以降からは1日午前2回、午後2回の計4回の投票がおこなわれます。3日目になっても決まらない場合には、1日投票のない日が入ります。そして、祈りと助祭枢機卿の最年長者による講話がおこなわれます。さらに7回の投票がおこなわれて決まらない場合には、再び無投票の日が入り、そして今度は司祭枢機卿の最年長者が講話をおこないます。さらに7回の投票によっても決まらない場合も、同じようなプロセスが繰り返されて、今度は司教枢機卿の年長者が講話をおこないます。さらに7度の投票によっても決まらない場合、枢機卿団の多数が希望する場合には、最後の投票で最多得票を得た候補者2人の決選投票にすることもできます。

決定そして受諾

それぞれの投票した後には、票の集計・数の検査・投票用紙の焼却が行われます。ただし用紙の焼却は、午前午後それぞれ2回目の投票後に行われます。1回目の時点で決まらなければ、そのまま再度投票が行われます。投票用紙を焼却するときには、特殊な薬品を混ぜてます。そして新教皇がまだ決まらない場合には礼拝堂の煙突から黒い煙を出します。新教皇が決まった場合には、白い煙を出すことで外部への合図としています。

過去には未決の場合には、湿らせたわらを混入して燃やして黒い煙を出すようにしていましたが、ヨハネ・パウロ1世を選出した1978年(昭和53年)8月の教皇選挙の時に、黒?白?とはっきりしない灰色の煙が出てしまい情報が混乱したことがありました。

そのために明確に色付けすることを目的として、黒煙の場合は過塩素酸カリウム・アントラセン・硫黄の化合物、白煙の場合は塩素酸カリウムや乳糖、松脂の混合物を投票用紙に混ぜて燃やすようになりました。さらにベネディクト16世を選出した2005年の教皇選挙からは、新教皇が決まった場合に、白い煙が出た直後にサン・ピエトロ大聖堂の鐘を鳴らして、新教皇が決まったという正式な合図をすることにしました。

投票によって、ある枢機卿が必要な票数を獲得すると、礼拝堂内に枢機卿団秘書と教皇庁儀典長が呼び入れられます。首席枢機卿は候補者に対して、教皇位を受諾するかどうかを尋ねます。もし、候補者が受諾して、すでに司教ならば、その時点で教皇位を受けることになります。もし司祭の場合には、首席枢機卿が司教叙階(司教として任命する儀式)をおこなって、教皇位を受けます。信徒が選ばれた場合には、首席枢機卿が司祭叙階した上で司教叙階をおこないます。

535年(日本は大和時代)以来、教皇に選出されたら、就任時に自分自身の教皇名を自らで決める慣習になっています。

新教皇はあらかじめ用意されていた3つのサイズの白衣の中から、自分の体に合うものを選んで身にまといます。そこで枢機卿団が待機している礼拝堂に戻り、カメルレンゴから新しい「漁夫の指輪」を受け取り、祭壇近くにすえられた椅子について枢機卿団一人一人からの敬意の表明を受けます。

次に助祭枢機卿の最年長者がサン・ピエトロ大聖堂の広場を見下ろすバルコニーに出て、ラテン語で新教皇の決定を発表します。そして新教皇がバルコニーにあらわれて、「ウルビ・エト・オルビ」(Urbi et Orbi、「ローマと世界へ」の意)ではじまる在位最初の祝福を与えます。かつて教皇は教皇冠を受けていましたが、ヨハネ・パウロ1世によってこの戴冠式は廃止されています。

日本美術館巡りの旅…

コンクラーヴェの歴史

歴代の教皇たちは、選挙の方法を変更することと望むなら枢機卿団を総入れ替えすることも認められていましたが、後継者を指名することだけは許されませんでした。

初代教会の司教たちは、その共同体の創始者によって指名されていたと考えられています。やがて、ローマやそのほかの地域で、司祭と信徒、近隣教区の司教たちが集まって司教を決定する方法がとられるようになりました。教皇に選ばれる権利がある聖職者のみでしたが、聖職者には投票権は与えられていませんでした。その代わりに聖職者たちには教皇を決定して承認する権利が与えられていました。

司教はそのプロセスの監視をする責務負っていました。教皇候補者が決定すると信徒の同意が求められて、同意を受けて新教皇が決定していました。民衆が大声で同意(あるいは不同意)を示すことは、古代以来のローマの習慣でもありました。選出の過程で不透明な部分があると候補者認可が紛糾して、対立教皇が立つというのも古代ではよくあることでした。

769年(日本では奈良時代の後期)におこなわれたラテラン教会会議で正式にローマの信徒による承認が廃止されましたが、862年(日本では平安時代で、元号は貞観)のローマ司教会議で、貴族に限ってその権利を復活させることになりました。

1059年(日本では平安時代で平等院が建立されて6年後)、ニコラウス2世は教令を発します。枢機卿就任のためにローマの聖職者と信徒の同意を必要とします。そして、教皇は枢機卿団から選ばれることとを初めて決定しました。その当時は、司教枢機卿たちが最初に集まって誰が次の教皇にふさわしいか討議します。話がまとまったところで、司祭枢機卿・助祭枢機卿が呼ばれて投票をおこなうという形がとられていました。

1139年(平安時代で 崇徳天皇の在位中)、ラテラン教会会議で教皇や枢機卿の選出をする場合、信徒と下級聖職者の同意を必要とすることが完全に廃止されました。

1059年以来、教皇選出の任務は枢機卿団が担っていますが、1268年(日本では鎌倉時代)クレメンス4世死去後の教皇選挙が紛糾して、教皇の席が3年近く空くということが続いたことに怒った民衆が選挙者たちを会場から出られないように閉じ込めた、という故事があります。これがコンクラーヴェの起源といわれています。

現在のコンクラーヴェの原型は、1274年(鎌倉時代)の第2リヨン公会議での議決に基づいています。

枢機卿団だけが教皇選出権を持つという規定は、1378年(室町時代)以降の教会大分裂の時代で激しい論議の的となりました。フランス出身の教皇グレゴリウス11世の死後、ローマ市民はイタリア出身の教皇を要求して暴動を起こしました。枢機卿団は、ローマ市民の圧迫に耐えかねてイタリア出身のウルバヌス6世を選出したこともありました。

枢機卿団はこの事態に、選挙に不当な圧力がかかったと感じることになりました。そこでローマを離れてフォンディへ移動して、ふたたび選挙をおこない対立教皇を選出しました。

1409年(室町時代:元号は応永)のピサ教会会議はこの混乱を収拾すべるために開かれましたが、結局3人目の教皇を選出して事態の泥沼化を招きました。結局1411年から1418年にかけて開かれたコンスタンツ公会議で、2人を廃位し1人を退位させることで混乱を収拾することに成功しました。これ以降から、枢機卿団のみが教皇選挙権を持つことが再確認されて、公会議は教皇の権威を超えるものではないことが確認されました。

13世紀(鎌倉時代)には、枢機卿団はわずか7人でしたが、16世紀(室町~戦国時代)に入って枢機卿団は急激に拡大しました。、1578年(安土桃山時代)まで枢機卿団の人数は増加の一途をたどっいました。このことを憂慮した教皇シクストゥス5世は、枢機卿団の人数の上限を70名と決めました。20世紀までこの慣例は守られていましたが、教皇ヨハネ23世がはじめてこの制限を取り払いました。

次の教皇パウロ6世も、教皇選挙制度の改革に取り組んでいます。80歳以上の枢機卿の教皇選挙への参加を制限して、投票権を持つ枢機卿団の人数の上限を120人にしています。これは必然的に、80歳未満の枢機卿の人数の上限したことでもあります。それ以後、有権枢機卿の任命は、この上限から相当数の乖離が生じることになり、その補充を目的として、数年に一度枢機卿の任命が行われています。(この規定を逆手に取って80歳以上の聖職者が、教会への顕著な貢献のあるものへの名誉的な枢機卿任命も行われるようになりました)。ただし、枢機卿団の年齢構成を考慮したことで、この上限を上回ったことも何度か発生しています。

元気ハツラツ~?